昭和47年12月18日 朝の御理解



 御神訓 一、「今月今日で一心に頼めおかげは和賀心にあり。」

 私はこの御理解の第一に掲げてある、この御理解みおしえ、御理解、御神訓ですね、御神訓を今朝ほどほんとに切実に、感じた事は今までかつて御座いませんでした。お互い日々奉唱させて頂きますあの天地書附にやっぱりこの一節が御座いますね。今月今日で一心に頼めおかげは和賀心にありと。生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありと、だから天地書附にある、それと同じ様な意味合いで頂いてました。
 もうとにかく今月今日で、一心に頼まねばならん事は、自分の心に和らぎ喜ぶ心を頂く事を一心に願わなければならんのだという、そういう風に頂いてたんです。所が最近の私の信心、同時に合楽の信心の一つの大転換を今きたしておりますね。その所謂今月今日、もうそれこそ御神前にぬかずくたんびんに、もう切実に祈らせて頂いておる事、ね、ひと所謂五つの願いなんです。
 それを私は今日はここん所を、一心に頼めおかげは和賀心にあるという事、今月今日で和賀心で一心に頼めと、頂きますと今日私が言おうとする事がみなさんにも分かって頂くと。和賀心で一心に頼めと。それこそ一心に頼め、おかげは和賀心にありという、頂き方ではなくてね、和賀心で一心に頼めと。だから和賀心でという解釈は、何時も皆さん頂いておられますように、まあ和らぎ喜ぶ心だと、まあ是を厳密に言えば大変な難しい事になります。けれども神様に向かっておる心。
 信心を頂いておるという事がです、有り難いなあと思う心です。合楽にご神縁を頂いておったという事が、有り難い事だなと思う心です。そういう心で一心に頼まなければならないことは、五つの願いだという事になる。一昨日から昨日にかけてマルショウの方達が、所謂信心のマルショウはマルショウなりに信心の研修をしております。昨日は合楽会で御座いましたから、そこの研修室を使わして貰いしまたら。
 トバンに一杯あの誰かリーダーの方達が書いて説明したのでしょう、所謂子供達にもその五つの願いを、子供達にも一生懸命分からせようとしておる後が感じられるわけです。トバンにそれを書いてですね、その訳をずうっと書いて、そしてこの事を願うからにはこういう風な信心をさせて貰わなければならないと言った様な事が、一杯あの書いて御座います。もうそれこそ現在の合楽の信心を本気で頂こうとしておる人達の、もうそれこそ老いも若きも、家族の者が勢を揃えてどうでも願わなければならない事として。
 今そういう、もうちょっとしたそういう運動がこう展開されておる。もう本当にそれは、もうどうしてこんな見やすい事に、気が付かなかっただろうかと。昨日一昨日でしたでしょうか、あの永瀬さんの奥さんがここでお届けをされます。もう最近はこんな事で一家中の者が、まあ信心の共励をさせて頂くとこう言うのです。先夜も丁度娘と娘婿が参りました。それでまあ家族中、卓を囲んで今合楽で言われておる五つの願い。ね、体の丈夫をどうでも願わなければならない事。
 それはもう現在丈夫であっても、なお丈夫を願わなければならない事。いや今おかげで家庭は円満だというても、尚且つ願わなければならない事は、家庭のに不和のなきが元である、または円満、それは本当に心と心が拝み合うていけれる所まで願わなければ、もうどんなに円満であっても願わなければならない。ね、どんなに今現在家が繁盛しておる、お金には不自由しないというてもです。
 矢張り子孫繁盛家繁盛をどうでも願わなければならない。ね、その為にはです仕事に頂いておる仕事そのものに忠実にならせて貰います。無駄遣いは致しませんという願いを立てなければならない。家庭の円満を願うからにはけして責めない。人を責めると言う事はもう金輪際責める様な事は致しません、心にも思いません。ね、どうぞ家庭円満の大みかげを頂かして下さいと、ね、そういう願い誓いそしてその後にそういう信心をもって、真実の御用にお使い下さいませと言う事によってやっと筋金が入るのだ。
 五つの私ともの願いではない、神様の願い所謂神願が御成就致します様にと、大きなしかも切実な願いをもって五つの願い。その話をこうさせて頂いとったら、娘婿がこう言う事を言う。此の方は京都の烏丸教会で、暫く教会修行をした事があると言う事です。本当にご縁ちゃ有り難い思いますですね。烏丸教会といえば京都第一の大きな教会です。所がお母さん、私合楽でその今のそんな話を聞かせて貰うてから、合楽はどうした遅れとるこっちゃろうかと、もう私どんそげな事ははぁよ知っとったとこういうて。
 もう金光様の信心頂いて、確かにこのみ教えを頂かないはずもないし、また願ってもおるんですよね。皆んながどうぞ子孫繁盛家繁盛も願いますし、又は健康も願うし、ね、家庭の円満である事も願う、是は金光様の信心者である限り、誰だって願っておるし、又んなら現在の合楽の皆さんであっても、矢張り願ってき願って来た事だきゃあ間違いないです。ですからほうそげなこつの、あのうだからその娘婿がそういう風に申します、第一あの合楽の教会に朝参ってんなさい。
 誰ぁれん朝でんなんでもお掃除しよる人はなかでっしょうが。もう烏丸教会辺りにいってんなさい、もう朝はもう沢山な人が、御祈念前にお掃除をしなさいますよち。と言う様な話この話しが夕べ、合楽会に出たんです。所が合楽の場合には例えばです、もう四時に例えば来てもです、もう親先生のごしん、御祈念が始まっとるからとても抜き足差し足、とてもぱたっとでんいわする隙がないと言うんです。
 昨日合楽会での話しなんです。ね、早よ参らせて頂いたら早よ参らせて頂いて、親先生の御祈念をじっと後ろで頂かして貰い、五時の御祈念を頂かせて貰い、ね、そして御理解を頂いて、んなら御用させてもらう者は御用させて貰う。当番の人達は当番で、だから合楽教会の場合は、それこそチリ一つでも散らかっておると言う事のないほどしに、いうなら、行き届いたお掃除が例えばでけておる。という話でした。
 だから皆さんあの例えば今まで願ってきた、また他所の教会で、もうそげなこつは早う私だん習っとったと言う様な、それとはもう全然内容が違うのです。今、ここで私がそれこそ唱えるように毎日、皆さんに聞いて頂いておる、五つの願いと言う事は、ね。それはね、もうどこまでも所謂、神様が助かって下さる事の為の願いなのですよ。五つの願いの四番目、五番目の所にそれが出て来る訳です。ね。
 そうしてです願ったら絶対のおかげを頂くと言う事なんです。ま又頂かなければならんという意気込みなんです。何十年んなら家繁盛子孫繁盛も願うてきた、体の丈夫も願うてきた、ね、家庭に不和のない事も願うてきたばってん、実際にその実が上っていないというのが今までの言うなら、私どんも早よからそげんとは知っとると言う事であって、もうもうその話がこの頃の十三日会の時もちょっと出てましたですね。
 古谷さん辺りは長いご信心者ですから、もうそう言う事はもう今さら言うとは可笑しい位。もう前から願って来た事だと。願って来た事と言う事ではなくて、もうここの場合はあの必ずこの願いをし、この誓いをもって、信心修行をさせて頂くなら必ずお徳をが受けられるというものなんです。しかも是が人間のもう切実な心の底からです、願って止まない願いであるからもうそれはどうでもこうでも願わなければならない。ね、しかもなら今日の御理解のようなね。
 今月今日で、ね、願わなければならないそれは和賀心、心を神様に向けた心その向けた心でです、これをもう日に何べんとはなしに、繰り返し願わなければならない。しかも私だけではなくて、ね、家族中のものに頼んででも願って貰わなければならない。先日御理解の中に、あるご信者がというてお話をいたしました。何時もこの例えば今私が申しておる事に、共鳴してほんとにそうですね、というて信心を日々続けておられる方が、二日間お参りがなかった。
 一日目はそうでもなかったけれども二日目には、まあどうしたこっちゃろうか、ね、自分が体が例えば具合が悪いかなら、なぜ家内に頼まんのだろうか。なぜ息子に頼まんのだろうか、こういう時こそ信心の薄い、息子やら嫁にでも頼んでからでも、私はこげな具合が悪かけんあんたどんが、朝の御祈念に参ってくれんの、朝の御祈念が参られんなら夜の御祈念にでもお参りしてくれんのと、頼ませて頂かんのだろうかと、ね。
 電話も掛けてきなさらんが、どげな積りじゃろうかと私が思うた途端にです、はあこれはせ、責めておる心だなと私が思うたらです、神様がすぐ頼めと仰った。ね、今日は参っておられますから、それは久富重雄さんの事でしたんです。いつもここへ座っておられる、いんや私の前にいつも座っておられる。だから二日間、三日間例えばそこの、そこが欠けてしまう。一家中で大体信心をしておるのだから、ね。
 家内に言やあ家内も参ってくれる、息子に言やあ息子でも参ってくれるであろうのに、しかもお取次を頂いて、こげな熱発しとる頭が痛い、そこで電話でも取り合えずお取次をなぜ願わんのだろうか。と言う事はどうしてと言う事は、もうすでに責めておる事だと思うていわば頭を打ち振って、ああ責めちゃならん、責めちゃならんと心の中に思わせて頂いたら、神様が頼めとおっしゃった。はあ今度参ってみえたら頼まにゃいけんな、夕べゆうがた参ってみえた。
 丁度私が御祈念が終ってすぐ座っておる時でしたから、月次祭のお供えを持ってお参りになった。ほうりゃもう額には御神米をこう張ってから、まあだ熱があってなんかうかうかしたような気持ちだと。そこで私がここからもう懇々と頼みました。ね、今その先に思う多様な事をです、ね、そしてどうでもこりゃ重雄さん、重雄さん一家がおかげを頂いて貰わなければならんから頼んででも、私があなたに頼んででもここん所を一つおかげ頂いて貰わんならんと。
 いうなかおの時にあのう熊本の、松村さんが、もう親先生私は今思いだしました、重雄っちゃま顔ば見て今思い出しました。この頃からもうほんとうに有り難いお夢を頂いたり不思議なお夢を頂いたりするけれども、それば忘れた時にはお届けせんでよか時よと、よしひろさんから教えてもろとった。だからもう私は気にもかけじゃったけれども、重雄っちゃまが今日参ってみえとるとをにお会いしたら、ほんとに重雄っちゃまのこげな不思議なお夢を頂いとったというて。
 重雄さんが私の話しを聞いてるここで一緒に御祈念しておられるところに、丁度松村さんがお届けにきた。それが先生、私がお夢を頂いたのは、重雄っちゃま、頭から足のつまさきまでですね、こう、丸くこの位ばっかりぃ、あのう空洞になっておるという体全体に、空洞になっておるというお知らせを頂いとる。これは私が重雄さんに、前にもまあ時々そう言う様な事を申します、あんたはね、あんたは本当に神様の御用に専念しなければ、本当いうたら今の命はないのかもしれんよ。
 もうはっきり言うなら、もうほんと今まで長生きしとる事が不思議な位だと、けれどもただ御用一途というその精神があるからこそ、例えばどんなに空洞であっても、神様がおかげ下さるのだ。その日も畑に出ておられた。夕方になったら嫁ごがまた来た。そいでもうお父さん、もうこればいっちょかた、はよもうそのか体が大分がたがた震うごと寒かった。けれども嫁ごが来てから是ば片付くるちいうもんじゃけん、そのんにゃ私は具合が悪かけんでちょっと帰るばのともいいきらんなり
 嫁ごと一緒に仕事をして、帰ってそのまま休んだとこう言われるんです。そう言う様な事がです、ね、あってはならない。それはあなたのずに叶うだけの事をです、例えば有り難く御用をさせて貰うと言う事はですけれども、こと教会の御用、こと神様の御用というたら、もうその事にあんたかかっと、いや掛っとらなければならない人なのだ。と、言う様な御理解でした。私が今重雄さんに頼んだこと、松村さんが何日前かに頂いたのを思い出してお届けをした事とがです、ここに一つになった。
 私はそういう時にこそ、本当に頼めれる時だと思うですね。私がこげん具合が悪して、いかんから、いっちょ嫁ごなら嫁ごにでん、または息子なら息子にでん、家内なら家内にでも頼んででも、本当に愈々信心をさしして貰うと言う事は、家内自身が頼まれた者自身がおかげを頂く事でしょう。私がなら重雄さんに頼むと言う事は、重雄さん一家がおかげを頂くために、私が頼んだでしょう。ね、
 ここん所は、あの有り難いですね、あのせめ、もうと言う事ではなくて頼むと言う事になって参りましたら、内容が大変変わってきたですね。例えば家庭に不和のなきが元、けして責めません。ね、けれども責めたいごたる時のある時には、自分の心、ああ責めちゃいかんと心を打ち振って、そして頼まなければいけん、ね。先日も私は家内に頼みました。お裁縫をする時にいつもこうひっちらけたまんま。
 一見なんかこう、針があるごたる気がして用心せなん。してはさみでんなんでん大きなはさみば畳の上に置いとるもんじゃけん、うかつに入ってくる途端、はさみにこう足をこう踏みかけようとしたから、私が家内にですね。お前こげなこつしてからいかん、というたら責めることになるから、お母さんお前が裁縫の後は必ずこう、片付けといてくれねと、俺は責めよるとじゃないぞ、頼みよるとぞというて。ね、だから本当にそう言う事をです、頼めれる、責めよるとじゃないです。ね、
 子孫繁盛家繁盛を願うからにはけして仇やおろかに、お金どん使う様な事は致しません、始末倹約も致します、家業には忠実になりますと。昨日、久留米の佐田さんからお届けがあった、そこの若い奥さんから。今度先生、御本部参拝の時に奥城でこう言う事を頂きました。丁度あのこ、あ、そこは開扉してございまましたからね奥城は。だから教祖様の奥城もそこにこうみえる。一生懸命御祈念しよったげなら、教祖様の奥城から御祈念をしておられる佐田さんの胸元にばぁっんとこう、当たるような感じでね。
 頂いたのが「ふのり」です、ね。先生どう言う様な事でしょうかと。ああたん方は乾物屋さんじゃけん、色々お知らせ下さっとには必ず乾物でお知らせ下さる、ね。ふのりと言う事をですね、例えば不徳と書いたらふのりと読むです。ね、お徳を頂くの徳にふとく。ね、いうならばときを徳を失うとか、ね、まだ不徳の為にとか、ね、それをあなたの胸にバーンと神様が、胸に手を当ててといいよんなさるとこじゃなかじゃろかと。
 実は私は今こそ言いますけれどもね、というて話た。この頃から、お部屋がきれいになった。お神様も立派になった。そこでこの頃ある茶壷を買うために骨董屋さんに行かれたところが三十万くらいで、これは値段もちょいとやっぱよかつに対しちゃ安かと思う紫檀の茶箪笥があった。それを買いたいなと、親先生にお許しを頂いたら買いたいなと、思うた。私はあの時にね、あなたがそのお届けをなさる時に私はなんか、こうじんとこう血の引くような思いがしましたよ。
 丁度あんた方のお父さんが、ね、佐田恭造さんが、誰彼に進められてゴルフをすると、いう気持ちでこちらではゴルフ道具が高いから、ね、どっか上海に旅行しなさる人に頼んだと言う様な私はお届けは聞かんけどそう言う様な噂を聞いた。その噂を聞いた時にです、私は同じようにそれこそ血の気の引く思いがした。けしてあんたにゴルフをしちゃいかんとか、紫檀の茶箪笥を部屋に置いちゃならんとかと言う事じゃないよと私は決して。ね、そりゃ例えば今のああ、佐田さん所のおかげから言うたらです。
 そりゃもうそれこそもう甘やぁ酸いこつです。けれども人間の弱さというのは、ちっと金ができるともう家を建てたり、ちっとおかげ頂くともうよか着物を着たり、もう食べ物から変わってくる。ね、まあだ本当のおかげを頂かん、ね、所にそう言う事を、もう本当にもう今合楽で佐田さんの一家中勢を揃えての信心が手本のごと見本のごと言われ、又事実おかげも本当にびっくりする様なおかげを受けておるのですから、ね。
 豪華趣味はいかんよ。ね、本当に自分の家に釣り合うた、自分達の信心に釣り合うた、いやそれ以下のものを求める位な気持ちで、もう神様が本当に立派な、それこそご普請でもでけたら、それそこ紫檀の机だって、紫檀の茶箪笥だってついてくる。それこそボタン一つ押しゃあ、会社全体が動くごとなってくりゃあです、ね、腹どんこう大きゅうなって、それこそゴルフ通いと、神様参りが仕事んごとしとったっちゃよか時代が必ず来ると。まあだ忙しい忙しゅうしてちいう時に、どうしてゴルフか。
 私はいやあしませんよ、私が思うたことを言いよるとです。ね、子孫繁盛家繁盛を願うからには、でしょう。ね、あなたが今度ご本部で頂いてきたと言う事はね、その事なんですよ、ね。ご承知の通りの所謂あのよい信心を身につけておられますから、そりゃ頂けばすぐ分かること。ね、どうでもそれこそもっともっと、子孫繁盛家繁盛のおかげを頂かなければならん、それを本気で願わせて頂くからにはです。
 おかげを頂かなければ。ね、是にはどがしこ金持たせたっちゃもう無駄なこったん絶対使わんと言う、見極めがつかずして、いわばなら沢山な金でも与えなさる筈はないと私は思う。それが徳の伴うた財産、だからどれだけ財産があってもあっても願わなければならない事なんだ。私は昨日教徒、金光教徒ですね、このお道の新聞が参りましたから、それを読ませて頂いておりましたら、熱海の東教会ですか熱海の教会の先生、東という先生が死線を超えて、という無い命を助かったというおかげ話が載っておったと。
 それを読ませて頂いた、直腸がんであった。ね、だから手術をして、いわば人造肛門を作らなければいけないわけですね、だからまず手術、切開手術をされて、そしてはっきりそこにあの癌がこう広がってそこに、あるとを確認して、お医者さまも何人も立ち会われた、その先生のもうご子息もやはり立ち会われた。これが癌ですというてはっきりして、それでこれを一応縫い直して、所謂ここに肛門人造肛門をつくるのは二週間後とか、と書いてありました。にまたもう一回手術をする事になった。
 まあ一生懸命の勿論信心もあった事でしょう、しかもその手術は、あの命はうけあわれないというほどしの手術であった。けれどもまあお取次を頂いて、金光様のお取次きも頂き、安心して手術台にあがったと。ね、所がその2週間の間に不思議な事が。それはもう真っ黒い便ともなんともつかないものが、下からおりたおりだした。それから口からもそういう黒い液が吐くようになった。
 だからまあ本当にお取り払いを頂いて有り難いとお礼を申させて頂いて、愈々手術をさせてもろうて、手術をさせて頂いたら、その2週間前にあった癌が綺麗に流れてしもうとった。もうお医者さんがもう自分の事の様に喜ばれた、又そこん所を読ませて頂きよってね、神様ほんとうにすさじい働きをね、私自身が感動したんです。ほんとに神様有り難うございます、もう有難う御座いますというて、私はあの神様のいわばすさまじい働きに感動しながら、四時の御祈念についたんです。ね、
 そしたら、ね、神様がそういう心で五つの願いをせよと教えて下さいました。今日の御理解の所がそこなんです。ね。和賀心で一心に頼め何を頼むか。これはどうでも頼まなければならない事が、今合楽でいわれている五つの願いなんだ、ね。和賀心でこれは大変な難しい事なんだけれどもです、ね、私共が日々感ずる信心の喜び、本当に信心を頂いておってよかったという心。
 合楽にご神縁を頂いておった事が有り難いと思う心、その心で五つの願いを繰り返し繰り返し願え、しかも私だけではない、家内にも頼め、子供にも頼め、一家が勢をそろえてこのことはどうでも願わなければならない事としてです、願うんだ。だからもう内容的にですね、今まで当たり前の事ですけれどもです、その当たり前の事の所の、謂私共が長年金光様の信心を頂いて頂いておった来た事とは全然違ってくるでしょうが。ね、
 合楽の場合はそれこそ御事柄として、成り行きを大事にするという信心が二十年間、本気で稽古されて来た。ね、そういう一つの基礎の上にたったのが、いうならば今度の言、言っておる所の五つの願いなんです。だから全然もう根底的に違うんです。ね、所謂御、御事柄として、または成り行きを愈々尊ばせて頂く信心をさせて頂きながら、この五つの願いに取り組ませて頂いた。
 これはもう御祈念のたび、ちょっと手を打って拍手をうった時には、もうこれだけはもうどうでも願わなければならん。もうせからしかそげん何遍でも願う、今までの合楽の場合、苦しいことはお取次を頂いて私に任せなさい、後はあなた達が信心になりさえすりゃあ願わんでも頼まんでもおかけがあるというおかげを頂いてきた。所がですそういう頂いたおかげに、より尚且つ頂きたいのが、五つの願いなんです。これは神様のね、本当いうたら神様の願いでもあるのだ。氏子が助かると言う事は。
 だから皆さん、その永瀬さんの奥さんじゃないですけれども、もうそげなんはた願いなら私だんもう、金光様の信心は初めから願うたり、知っとると言う様な場合との違いをね、はっきり把握させてもろうて、そしてその違ったそこん所をです、有り難いという心持ち、所謂和賀心をもって願う。心が神様に向かうておるその心で願うていく。これはどんなに家庭が円満であっても今どんなに健康であっても、いや日に日に繁盛しておかげを頂いておるというてもです、もう限りがない事だ。
 今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり。今月今日でしかもそれは和賀心で一心に頼むと言う事、その一心に頼むと言う所が現在、五つの願いでなからなければならん。一心に願う。ね、しかも私だけではない、ね。それは頼んででも、そこん所を願わして頂かなければならない。天地の親神様のすさまじいまでのその働きを、なんと素晴らしい神様の働きであろうかと、神様のお働きに感動しながら、その感動する心でです、この感動する心に今まではおかげがあったんです。ね、
 けれどもよりもっともっと頂かなければならない。ためにその感動の心をもって、一心に頼む事は五つの願いでなからなければならない。今日ほど私は、今月今日で一心に頼めという、この御神訓をです、ね、ほんとに今の合楽のためにあるみ教えのように思います。一心に頼めと仰る所。ね、もう一心にそこを頼み抜かせて頂く、しかも頂いても頂いても限りなく、頼んで行くと言う事。
 それは是はどうした欲の深いやつじゃろうかとはけして神様は仰らん。もうそれこそ、喜びいっぱいで神様はおかげを下さる。それは神の願いなのだから。その私ともの人間の切実な願いと、神様の願いの一致点がここに出てくるのですから。ね、素晴らしい願いに成って来る訳であります。この話を夕べ皆さんと一緒にさせて頂いて、もうとにかくもう何遍も何遍も、もう十一時になりました、十一時半になったと。
 もう本当に初めの間はみんな眠そうにしておられたけんお話いっちょんせんなかった所が、だんだんその、最後になったらぱっちり皆んな目を開けて。生懸命にお話を聞かれ、話されるから、もう十二時近くまででしたかね、昨日ゆう、ね。あのやはり今朝からもう夕べが遅かったから眠かろうけれども、やはりああしてお参りになっておられます。とてもほんとうにこの話を聞いたら。
 ちわきにく踊るという言葉があるがですね。と言う位なものがね、今の合楽の方達にはできなければならないほどしの事だと私は思うです。夕べ遅かったけんで、てなんてんて言うておれないほどしの私はことだと思うんです。もうここん所に愈々焦点をおいて、これは。教会の上にも、もう本当にちょうど私が夜食はせんと言い出して、お通じがよくなった夕べも話した。丁度お話半ばにお通じにやらせて頂いて。
 もうたっぷりすごるごと気持ちのよかごとでとるけんほんに皆さんにちょいと見て貰おうごとあると皆さんに話た事でした。もう本当に心ほどきくものはないと神様が仰ったが、心ほど効く事はないと、ね。それがなら、健康だけの事ではない、経済だけの事ではない、人間関係だけの事ではない、すべての事に、それが頂けれるので御座いますから、ね、本気でそこん所に取り組ませて頂かなければならんと思う。
   どうぞ。